可月亭庭園美術館

 

創設

原型の庭園の作庭年代と作者は不明ではあるが、葦名氏が会津藩主であった時代 (1189-1589) から家老下屋敷として建設されたと伝えられている。その当時からこの地には、ある程度整備された、池や植林が施されていた。可月亭庭園のつくりが、御薬園のつくりと異なる平庭の形態を取るのも、原型の庭を生かして改庭されたためだろう。創設時に関する定かな情報は少ない。

星野家の歴史と入邸

星野家の祖先は藤原氏より出た伊勢の人である。星野家は星刑部少輔光政の後裔、星玄蕃よりきているため、元来の姓は星としていた。朝熊二万石藤原内蔵正近光(文明十二年没AD1480)を始祖とする。その後裔、星刑部光豊は葦名氏の家臣として東上し、鉄砲隊大将となって二万石を領した。葦名家滅亡後、致氏して南会津郡楢原に移住し、土地の郷頭として代を重ねた。星野家が可月亭庭園のあるこの地に関わることとなったのは、以下の文に示された通りである。

「蒲生氏郷が天正十三年会津に移封入部、その後文禄ニ年に黒川城の大修復の折り、築城の為の良材を搬出する必要があり、宗右衛門光郷が、楢原から葦名氏の若松材木町の家老下屋敷であった、現在地に居を構えることとなった。」(註1)

これより、星野家は材木町に居を構え、家業を材木商から、鍋職躊物製造、酒造という変遷をたどる。

改庭の由来

改庭は、元禄年間だとされている。しかしその当時、下級武士以下庶民は二階住宅地・庭・池・塀・門等を構えるのに大きな制約があった。可月亭のように広大な敷地の庭や池、門を持つことは、商工業で栄えた富や家柄を持っていても許されることではなかった。なぜ星野家が可月亭庭園を作ることを許されたかは、次のような事柄からである。

星野家歴代当主が大川の大洪水による田畑の流失・凶作等による飢饉が発生した際、私財を投げ捨て進んで酒造米等放出し難民救済の手当を行う、其度重なる善行が藩主の御耳に達し、褒美として所望の品を申し出るように、との御沙汰であったが固辞して受けなかった。その後地元住民と相談したところ、皆で寛げる憩いの場が欲しいということになり、又、藩主御自らも大川川原で御鷹狩り・御馬揃え等の行事を主催した場合、行き帰りの道すがら御休息される施設が無かった為、御休憩所として利用する名目で、庭園を造営するお許しが下された次第(註2)である。

改庭した人物
~目黒浄庭~

改庭を行ったのは、目黒浄定(浄庭)という人物である。目黒浄定は、小堀遠州の流れを汲む作庭師であり、松平家五代目の藩主松平容頌によって会津の松平家別邸「御薬園」を改築するために招かれた。「御薬園付絵師」という肩書きを会津藩からもらい、御薬園の改庭を行うかたわら、上記の理由で藩から要請があり、可月亭を同時期に改庭したものと口伝される。目黒浄定自身については、

「元禄年間御薬園付目黒浄庭が作庭に従事したことは、天寧寺町検断飯岡七左衛門の「万内控帳」の元禄九年(1696) 四月六日の項に明らかである。万治・寛文の頃江戸藩邸を築造したという浄庭と同一とみられ、京都または近江の人といわれる。」(註3)

と、このように伝えられている。また、目黒浄定が作庭したといわれる御薬園の由来をつづった「御薬園由来つづれ草」には

「安永年中の事とかや容章靈神御君は庭の形も築き直しし庭は古今の名人目黒浄庭と申す者庭を直せし其時北の方なる滝口へ雨龍が通ひしと申せしなり」(註4)

と記されている。

しかし、元禄の頃からおよそ百年近く経た安永の頃(1772~1780)に初代の目黒浄定が改庭に再び従事できるとは考えづらい。そこから、目黒浄定という名は二代ないし三代襲名されたと考えられ、御薬園の改庭やその他の会津名庭の作庭は二代、三代の浄定が従事したという説もある。それに対して可月亭庭園は、改庭した時期も元禄年間とされ、御薬園の作庭と重なる。よって、初代の浄定である可能性も高い。

改庭時期の
会津の茶道史

このように、目黒浄定については可月亭庭園を改庭したかどうかについての裏づけは不十分である。しかし遠州流の造園師が関わったことは、当時会津に広がっていた茶道の流派から推測できる。というのも、庭園のつくりは、茶道の流派によって異なったつくりをみせるからである。当時の茶道文化を調べることは、可月亭庭園のつくりに関するーつの資料になると考えられる。

現在、会津における遠州流茶道は途絶えており、遠州流の庭園が存在することは不思議に思えるが、会津藩には保科正之以後の茶道の系譜として、有名な石州流怡渓派の他に、遠州流の茶道があったのである。

遠州流茶道は保科正之が藩主であったころに伝播された。正之は、文治政治家として儒教と神道を政治の理念に置き、芸術を愛し、和歌俳諧にも秀で、茶道は松江の松平不昧、(松平 治郷)彦根の井伊宗觀とともに、大名三茶人のひとりにあげられる教養人でもあった。「会津茶道史」には、

「小堀遠江守(遠州)が三代将軍徳川家光の茶道師範だった関係上、家光の弟たる正之も初めは遠江守に就いて遠州茶道を学んだ。」(括弧内筆者加筆)(註5)

と記載され、保科正之と小堀遠州との関係をあらわす書簡をも掲載している。その後、正之は

「萬治元年、古田織部正の門人山本道句の孫山本道珍(良次)を召抱へ、延寳六年秩祿百五十石を給し茶坊主として遠州流茶道を司らしめた。」(註6)

というように、遠州流の茶道を会津に流入させた。山本道珍は、会津藩における遠州流の祖で、子孫代々襲封して茶頭となったと会津藩における遠州流茶道の興隆については記述されている。

正保四年(1647)遠州が世を去ると、将軍家の茶道師範に片桐石州(16O5~1673) が登場した。正之は先に遠州流の山本道珍を藩の茶頭として召抱えていたが、石州に師事するようになると、藩にも石州流を取り入れるようになった。こうして、しばらくの間会津には遠州流と石州流の二派が併立することになったのである。現在会津では石州流が主流となっており遠州流は全く途絶えているが、作庭された元禄の頃には、遠州流は初代山本道珍が茶頭として活躍していた時期であった。これらの資料より、遠州流の造庭師が可月庭の改庭に関わっていたことは明瞭であると言えるだろう。

可月亭庭園秘話

可月亭庭園は、会津三名園のうちのーつとされ、名高い。改庭からおおよそ70年後、松平家第5代藩主容頌の時代に、藩主の別荘としての御慰所を探していたため、藩主のお目にかかることとなる。
頃は宝暦十三年六月、容頌公は以前、糠塚を御慰所としていたが、そこは大変水の便が悪く、使用する奥方や使用人たちが不自由を強いられていた。そのため、容頌公は代わりの御慰所を探すよう、御用人どもに命じた。御用人どもが適切な御慰所を探したところ、井深茂右衛門の下屋敷を御慰所として召し上げることにし、代わりに茂右衛門には以前の御慰所である糠塚を与えることとなったのである。その茂右衛門下屋敷を「古川御茶屋」と名付け、容頌公がお使いになっていた。

しかし御用人どもは、「古川御茶屋」では庭が沢や山にかかっていて狭く、藩主がお使いになられる御座所としては粗末ではないかと思案し、その他の良い場所を探していた。そこで、材木町の鍋屋三郎治の庭が、水もきれいで便も良く、庭のそともどれだけでも広げられるところにあるという情報が耳に入ってきた。御用人どもが藩主に尋ねたところ、「まずは行ってみてみよう。」と藩主はいわれ、後日、藩主御自ら鍋屋三郎治の庭にいらっしゃった。その時「木や石がことのほか古く、なかなか近頃作った庭には見えない。」という感嘆の声をもらし、藩主は帰路についたという。

その後、藩主がおっしやることには「三郎治の庭は古くからあって、三郎治の先祖が良い庭を造ろうとして手入れしていたと見える。三郎治もそのような気持ちを受け継いで、今になっても手入れを怠らない様子である。感心なことだ。御用地に召し上げるには不憫なことである。古川御茶屋で不便なことはないので、他に慰め所を作る必要はない。」とおっしやり、古川御茶屋をそのまま使われたとのことであった。(註7)

上記の文中の鍋屋三郎治とは、星野家で代々襲名された家督の名である。星野家が鍋職躊物師を営んでいた名残で鍋屋と呼ばれていた。現在でも、星野家は鍋屋三郎治を省略して鍋三、および、鍋三本店と呼ばれたりしている。
当時の三郎治は、星野光忠であったか、光男であったかは定かではないが、宝暦のころ、星野家の家業がうまくいかず、非常に財政が困難な時であった。可月亭庭園をそのままの形で維持していくだけでも多額の費用が必要である。財政が困難であるに関わらず、その当時の三郎治は庭を丁寧に手入れしていたということは、やはり、代々伝わってきた庭を宝とし、大切にしてきた当時の三郎治の姿がうかがえる。

召し上げは、貸し上げと異なり藩の直轄となることを指す。召し上げになることは大変名誉なことではあったが、藩主は大変温情なかただったため、召し上げるにあたっての三郎治の気持ちをよく察し、取りやめたのである。容頌公は、人となり質朴恭謙、華美はいっさいしりぞけ、よく下民の艱難を察してあわれみ、華美、虚飾をなすものがあれば、決してこれを許さなかった。またよく人を用いて遇し、偏ることがなかったという。容頌公のひととなりがよく現れているエピソードである。

可月亭庭園の造作

<星野家木造門>

現在の県道に沿ってある木造門は、改庭当時の姿をそのまま残している。藩主は、狩りからお帰りになる際に、この木造門をくぐり、茶室「可月亭」へと足を運び、休息なされたとされる。

<茶室「可月亭」と「可月亭庭園」>

芦名氏家老下屋敷の改庭とともに造られた茶室。現在は失われてしまっているが、松平家の歴代藩主が狩からの帰り道に休憩所としてお使いになったり、地元の人々の憩いの場として提供されたりした。地元の俳人や親族によって歌詠みの会が催され、その際に、池に移りこんだ月が見事な美しさを奏していたことから「可月亭」との名がついたとされている。

「可月亭」 を歌った歌が以下の四首である。

老松繞屋如千古庭上□川聲自潺鳶言潺下無□勝座看青峯幾壘山    磊々山人

タかけやいつきの松の蝉の聲                   水哉

やり水のたへぬ流れに影うつす松のみどりもあせしとぞたもふ    光徳

星野氏水亭                           溜川

野水潺湲繞砌鳴 遠山重疊出林青 稚松城下多名苑 第一風光是此亭 (註8)


明治10年頃の可月亭

上図は、茶室「可月亭」が焼失した後、明治10年頃に茶室「可月亭」の跡地に建てられた休息所を写した写真である。
休息所の中に着物姿の男性一人と男の子一人が見える。
当時の地元の人々が憩う姿が見ることができる貴重な一枚である。


大正年間の可月亭

上図は、大正年間の可月亭の写真である。明治後期に火事で焼失した母屋と休息所が再建されている。ここから、星野家の人々が地域との関わりを大切に思っていたことが見て取れる。

右図は拝見石から眺めた「可月亭」庭園である。図の中央下に見える大きな石が拝見石である。ここからの眺めが最も美しいとされる。

<蹲>

茶室「可月亭」に入室する際に、世俗の穢れを落とし、身を清めるために、手を洗うための蹲である。茶室「可月亭」を忍ぶことの出来る遺品のーつである。

<地蔵尊>

江戸後期、星野家の者がならず者によって家名を汚されるところ、家の名誉のために戦い、命を落とした。その供養としてまつられたのが、この地蔵である

可月亭庭園についての記事

<会津若松市名鑑>

「材木町星野邸内の庭苑にして約七百五十坪あり、由来山翠に水清く自然風光に富たる地也加ふるに巧みに人為を施ゑたる林泉なれば四季の眺望兼備はり眞に塵外の清趣あり、魔貌の園中邸屋に偏して、瀟酒の東屋あり卓に眸を放ては東南に築きたる丘山は緑芝將に滴らんとし、西方に密直する松林は、蔚蒼として清籟を送るの蔭渓泉潺湲として流れ湛たへて潭となし奇石散点し、花弄倭樹、影を水面に醮し、淺水低橋の汀彩鱗踊る、春陽和煦梅花開くの時、鶯枝に鳴き、詩情興る、三伏炎熱に苦しむの時は涼風徐ろに來り、乍ち秋を生す、□夜明月東山に昇るのタは清酌に適すべく、秋霜萬朶を彩る日錦繍の紅葉を賞し、揮酒の席を開くべし、遠巒の新雪に對ふの晨には、茗を□碁を圍むに宜し、全園の風致雅趣、右色藹然として掬すべし、故に往時舊藩公折に觸れ屢来遊の榮あり、又名家古人朗詠多し、」(註9)

<若松市史>

可月亭は市内材木町星野家鍋三邸内の庭園にして約千坪あり。山翠に水清く、自然の風光に富み、加ふるに功に人工を施したる林泉なれば、四季の眺望兼ね備はる。故に昔時藩公屡々来遊あり。(註10)

<福島県史>

「可月亭庭園は、やはり元禄頃の作庭であるというが、平庭で、尾瀬の平滑滝を縮小したような、ゆるいせせらぎを思わせる滝や瀬淵のあつかいは御薬園とは異なる手法である。
星野氏は南会津郡下郷の出で千葉一族の星姓である。保科氏入部の寛永ごろ既に今の地に居住しているので、中世末の作庭になるものを、目黒浄庭一派により手を加えられたのであろう。明治の出火で茶室可月庭や古灌木を失って旧態がわからなくなったが古い名園である。」(註11)

<会津本郷焼きの歴史>

「可月亭は、銘酒「清瀧」の醸造元星野家(会津若松市材木町)の庭園である。御薬園の改庭と同じころ、同じ造園師によって遠州流に改造されたという。星野家の先祖は伊勢松坂の出身で、天平18年の蒲生氏郷の会津移封にあたり、ほかの多くの町民と同じく氏郷に随身して会津へ移ってきた。元禄年間創業以来当主正三氏まで十四代、代々酒造業を継いで今に至っている。酒名の「清瀧」は岐阜の養老の瀧に因んで名づけられたものだという。
庭は本邸の南側に、小谷・芦の牧方面の連山を遠景につくられている。庭園の総面積は約一、〇〇〇坪。毎年の庭園管理費は数十万にのぼり、家屋敷全部の固定資産税十五、六万円のうち庭園の分は数万円はくだらないだろう、と当主正三氏の話である。これから察すると総面積五千坪にのぼる「典型的な大名庭園」の御薬園の年々修理費はさぞ莫大なものだろうと思われる。」(註12)

注釈

註1:「系図」p164
註2:「星野氏系図」p4
註3:「福島県史第20巻文化1」 福島県図書教材 p948
註4:「御薬園由来つづれ草」p5
註5:會津短期大學「『會津學會報 第參號『會津茶道史(上)』」 角田忠蔵著 昭和三十年 p 12
註6:同上p 13
註7:「会津藩家世実紀第10巻」編者代表丸井佳寿子 歴史春秋社 昭和59年 p414 ~415 (原著訳は筆者)
註8:「会津若松市名鑑」佐瀬三餘畸史著 明治38年p 106
註9:「福島県史」p 952
註10:「若松市史」p389